いま、姿のない貴方と共に     水上とも子     1101



季節は移り、夫が逝ってしまってから春が過ぎ、もう夏も終わろうとしている。いつか二人で見た故郷の灯篭流しを、今度は夫のために送り盆の宵にしている自分を、まるで夢でも見ている心地で、水面に揺らめくろうそくの光を見つめながら、人生の無常をしみじみと感じるのでした。

平成14年1月28日午前11時58分、夫は再び戻らぬ遠いところへと一人で行ってしまった。27日の午後から東京の空に舞い出した雪が本格的に降りしきる中、深夜帰途につく私の背後から、しっかりとした口調で「気をつけて行けよ」といって見送ってくれた言葉が最後となってしまう。明け方、子供からの連絡で急いで病院へと向かう。昨晩まであんなにしっかりとしてくれていたのに・・・

雪はいつのまにか止み、うっすらと明けていく町並みをタクシーの車窓から見ながら、とうとう来るときが来てしまった、と苦しかった夫の闘病生活を思い、できる限りを尽くしたのも通じなかった悔しさで涙があふれた。もう一度声がききたい、目を開けてほしい、私が病院に着くまで待っていて欲しい。そんな思いにかりたてられながら夫のもとへ向かった。

いつものように、朝、変わりなく書斎へとお茶を運び、そぉーと文机へと置く。取り替えなくてはと思いながら、ついそのままの少し色褪せてしまったセピア色のランプ。愛用の万年筆 インク、引き出しの中から見つけたプラスチックの箱。中には赤,黄、白の折れたチョーク、そして腕時計。それらのものは夫の気配と共に書斎にあり、言葉のない人と言葉を交わしながら朝が来て、また夜が過ぎていく・・・・・

情熱的な人で、その狂気をも思わせる生活ぶりは、時に私をとまどわせたりもしたが、幸福で面白い40年程の夫との生活は、満ち足りたものであった。

昭和40年日本テック設立のころ、他の援助などは一切ない中、懸命に働き翻訳をする会社などと言う当時としてはまだ下積みの辛い時代、平均の睡眠時間は3,4時間といった生活によくたえてこれたものだ、とあの頃の夫の姿を思い出す。自分の行く道を信じ、ただ前向きで、背中がいつも切なくて、そんな夫の支えになりたいと若かった私も又、懸命になった頃がなつかしく、いとおしく思い出される。

その頃の夫の天職というべき講師への道は、多くの方々との出会いの場を得て、はっきりとしたひとつの進むべき道筋が見えてきた時代へと入っていった。

なによりも人が好き、まったく人を憎むことを知らない人であった。机に向かい仕事と一騎打ちの姿は鬼気迫るものがあり、その間は声をかけることもできず、寝食も忘れるほどで、終わった後「又神様、降りてきてしまったのね」などとホッとして声をかけるのが精一杯で、無事終わったことに安堵した。そんなことの繰り返しの日々であったように思う。

自らを信州の山猿と言い、家での生活ぶりは素朴で、贅沢なことは好まない人であった。お酒が入り楽しくなると、落語でお馴染みの、宛ら長屋の義太夫よろしく、子供達をお小遣いで買収し、すっかりハーモニカの奏者になりきった夫はリクエストを欲求し、しまいに皆 逃げ腰になったことなど、楽しかった団欒のひと時を思い出す。

子供達も成長し、晩年は二人だけの時間も少し増え、日曜の夕食は、きまってステーキとなり、ミデイアムに焼いた肉片にたっぷりと生のガーリックをのせて食べるのが好物で、食後満足感に「ごちそうさま」と言ってくれたものだ。そんな時が又、私の喜び。二人きりではあったが、日曜の夕、我が家のキッチンは、肉の焼ける音やたちこめる湯気と共に明るく満ち足りたひとときであった。

今はもう、あれもこれも過ぎ去った遠い時間。いま私はそんな時間の一つ一つを懐かしみ、やがて又いつか、彼方の世界で夫と再び会うことができるのか、やさしく微笑む遺影に問いかけてみる。

ここちよく我にはたらく仕事あれ
それを仕遂げて死なむとぞ思う
                     石川啄木

この歌を読む時、夫の姿を思い出します。
多くの方々とお会いでき、多くの仕事をして、少し早い旅立ちではありましたが、きっと悔いのない一生であったと思っております。

                    本当に皆様ありがとうございました。