水上先生について、東京技術英語研究会について      鈴木弘明               1113E


1. はじめまして
   この度はOSTECジャーナルに投稿の機会を与えていただきありがとうございます。阪神大震災の被害に遭われた会員も多くいらっしゃることと思います。心よりお見舞い申し上げます。
   さて、私は東京の技術英語研究会において発足当時から在籍の最古参のメンバーです。水上先生の教えを20年近くにわたって受けてきました。この機会を借りて東京の研究会について(水上先生について)書かせてもらうことにしました。

2.東京・技術英語研究会の歴史
   東京の研究会は79年に現在の名称の「技術英語研究会」となりましたが、その前身は77年に「工業英語研究会」として発足しました。しかし、その前にもちょっとした歴史があったのです。あまりにも昔(!)のことなのでだいぶ不正確になっていますが記憶をたどってみました。
   今は廃刊になってしまいましたが、「工業英語」誌が創刊されたのが、74年3月だったと思います。4月号か5月号に工業英語研究会というグループが会員を募集しているという記事を目にし、早速会場となっている田町の機械工具会館(今も研究会の会場として使わせてもらっています)に出かけたのでした。
   工業英語研究会は今もテクニカル・ライターとして活躍されているT氏が幹事をやり、金曜の夜、日曜に4つのグループに分かれて主として、英文和訳を輪講形式で勉強していたのですが私も日曜の研究会に参加しました。自分にとってはすべて新鮮に感じられて、結構勉強したものでした。その当時使ったテキストであるベントン社発行「Basic Electronics」は今でも大事にとってあります。

   このようにして工業英語研究会の活動は順調に進んでいったのですが、企画マンとしての才能を持つT氏は、月1回のペースで「ジョイント・ゼミ」という企画をスタートさせました。これは工業英語の分野における一流の先生達を招き、会員が一層の研鑽を積もうというものでした。第一回目のセミナーには、50から60人(いやもっといたかもしれません。)もの人が集まりました。この時お呼びしたのは、水上、岡地、丸山、大沢の諸先生だったと記憶しています。
   ジョイント・ゼミはその後2年間くらい続いたと思います。鳩山道雄先生、半導体の伝田先生といった専門分野での大家の講義を受けたこともありました。亡くなられた徳永さんも2回ほどジョイント・ゼミにおいでになりました。大阪でもすでに研究会活動が活発に行われていて東京とも熱心に情報交換がなされていました。(むしろ、今よりもきちんと行われていたような気がします。古い会員として反省しております。)「年配の方なのに本当に熱心に勉強されているなー」と感心しておりましたが、亡くなられる直前まで、勉強をお続けになったことに対し敬服するとともに自分もそのようにありたいと思っています。なお、徳永さんは私にとって同じ大学の工学部の大先輩でもあります。あらためて、ご冥福をお祈りします。
  工業英語研究会は77年10月1日にさらに新たな活動を開始しました。水上先生を専任講師としたプロの翻訳者育成のための「特訓コース」です。自分が工業英語を勉強する上で、プラスになることなら何でもやろうと元気な頃でしたから、早速このコースにも参加しました。現在、東京の研究会は月に3回金曜の夜に行われていますが、特訓コースは当時は毎週(!)土曜日の夜にやっていました。
  79年には工業英語研究会は技術英語研究会と会の名称を変え、新たなスタートを切りました。クラスが週3回金曜に行われるようになったのもこの頃だったと思います。ジョイント・ゼミは閉講となっていましたが、グループ研究会はその後も3年間くらい活動を続けました。人数は減りましたが、IBMのテキストを一字一句おろそかにせず、読みあわせをやっていました。
  このように、東京では工業英語研究会が母体となって、種々の活動が生まれたのですが、最後まで残りそして今も熱心に研究会活動を続けているのが、水上先生を専任講師とした技術英語研究会です。

3.自分と技術英語研究会
  東京の研究会において工業英語の勉強を始めてもう20年にもなります。我ながらよくやってきたものだと思います。小学校に入学してから大学を卒業するまでで16年です。それよりも長い期間一つの事を続けてこられたのは不思議にさえ思います。もちろん、その割には翻訳が上達していないという反省がいつも残るのですが、どうしてこうも長きにわたって田町に通い続けられたのかを考えてみました。
  まず、なんといっても水上先生に出会うということがなかったら、途中で工業英語の勉強をやめていたかもしれません。中学生の頃から英語は大好きな学科でした。しかし、その頃は英語はいわば、ゲームかパズルのような感覚で勉強していたような気がします。つまり英語と日本語が常に一対一でしか対応していなかったのです。水上先生は言語としての英語・日本語の面白さに対する目を開かせてくれました。
  「特訓コース」が始まった頃の自分なりの熱心さを今でも懐かしく思い出します。先生から教わることの一つ一つが新たな驚きの対象でした。それまで自分で結構わかっていたような気がしていた(考えるだけでもはずかしい)英語が全然別のもののようにさえ感じられました。先生の講義の一言一句も聞き逃すまいと一生懸命でした。もちろん、今はその熱心さが無いというわけではありませんが、当時は英語は本当にこんなに面白いものだったのかという驚きに引っ張られて頑張っていたと思います。
  ー以降は続くー