OSTECジャーナル 第11号                                           1128E 本文へジャンプ
人生最大の痛恨事

                        前川 太市

私にとって、<水上セミナー>は、何よりもまず、心地よい緊張感につつまれた一種の知的興奮の場であった。
場の中心には、さまざまな人々で構成されるOSTECのメンバーの発する音声に耳をすまし、そのどんな不協和音をも即座に聞き分ける名指揮者、水上先生がおられた。その能力はおそろしく鋭い。それは、恐らく天成の資質と、鍛えぬいた修練の賜物だというほかはないけれども、いっぽうで不協和音を指摘する彼の眼は限りなく優しい。毎月第三土曜日の東淀川勤労者センターの一室は、これが驚くべきことに四半世紀も続いたのであった。今ここで「であった」と過去形で書かねばならないのがなんとも悲しい。

講義だけではなかった。講義が終わってからの新大阪駅の地下の酒場での楽しい語らい − われわれが多少のユーモアを込めてシンポジウムと呼んでいた − でも、年に一度の研修旅行でも、先生のおられるところにはいつも楽しい知的興奮の場が出現した。 超一流といわれる人が例外なくそうであるように、この指揮者もまた権威ぶるとか、人を見下すとか、威張るといった気配は微塵もない。常にメンバーと同じ目線で対応されるのだった。
ある日のセミナーで、白板に書かれた英文が原文の日本語の技術内容をまったく誤解する内容だったことがあった。当然そのことが受講者からも指摘された。先生は少し困ったような顔をされたが、それに深く触れずに、文字どうり淡々と添削された。その日も例によっておこなわれたシンポジウムで、先生はポツリといわれた。「あの英文から、わからない技術内容を何とか表現しようとする、必死の思いが伝わってきませんか。それを感じとれないようではインストラクターとしてダメだと自分は思っています」と。先生のやさしいまなざしの背後には、こうした自己に対するきわめて硬質な思いがあることを知って、わたしは改めて名指揮者の本質を垣間見た気がして軽い興奮を覚えた。シンポジウムもやはり、また違った意味で知的興奮の場なのであった。

これと関連するのが「知らないことは恥ではない」というのも先生の信条であった。その現われとして、それぞれの分野の専門家でもあるメンバーのハナシには、謙虚に耳を傾けておられた。教えることは、学ぶことであることを、身をもって実践しておられた。これも水上セミナーで学んだ貴重な経験の一つである。先生の話はいつも具体的である。 例えば、最新の技術情報について知りたければ、まず「imidas」でじゅうぶんである、といわれる。しかし話はそれだけで終わらない。「あの本は本箱に飾っておくのではなく、必要なところは破いて、ファイルに貼り付けておけばよい。何時かコピーしようなどと考えていると、機会を逸してしまうものだ。また、過去の「imidas」は捨ててはいけない。数年まえに新しかった情報は今年の分には書かれていないから、それが必要になることもあるからだ」と続く。恐らく先生が日常実行されていた経験から発したアドバイスだろうが、何と具体的でわかりやすい話だろう。

シンポジウムでの先生の言行録を書けば、それこそキリがない。そのなかで、珍しく三度も聞いた話がある。まだ先生の四十代のはじめごろ、ある日突然ソニーの盛田社長に呼び出されたというのである。何事ならんと、訪ねると立派な社長室に通された。洋書がぎっしり詰まった書棚のある部屋で身を固くして座っていると、現れた盛田さんは開口一番「あなたの書かれた工業英語の文章を在米中ずっと拝読して感心しました」と言った。当時雑誌「工業英語」誌に執筆されていた先生の文章を、社長はあちらで読んで高く評価していたのである。その日先生は彼から、工業英語はこれからの日本の産業界の重要な分野だから、おおいにがんばって欲しいと激励されたのだった。「思わず身体が震えましたね」と先生は語った。照れ屋の先生から三度も聞いた話だから、よほど嬉しかったのだろう。まさに「英雄、英雄を知る」エピソードとして忘れがたい。

こういう話が出るのは、シンポジウムが佳境に入ったしょうこである。話は熱を帯び、一同固唾を呑んで聞き入っている。先生はその雰囲気に気づくと突然照れくさくなり「なーんちゃって」と言い、ピシャリとその広い額をたたいて、旨そうにウーロン茶で割った焼酎を飲み干して一息つくのだった。これを書きながら、そのときの先生の照れと、嬉しさの混じった楽しい表情がうかんできて、切なくなる。

<OSTECジャーナル>にも毎号寄稿していただいた。編集責任者として、とくに締め切り期日をめぐっての先生とのいろんなやり取りも、今となっては無性に懐かしい。まず何よりも、先生は原稿を全力投球で書かれた。内容はいうまでもないが、先生の原稿はレイアウトまできっちりと完璧に仕上げられていた。こちらの要求した枚数ピッタリに整然と執筆された。何事によらず、手を抜いたり、いいかげんな仕事はなさらない、というより、出来ない人であった。昨年10月にいただいた原稿「泥まみれ、血まみれ、それでもわが道を走る」は文字通り先生の絶筆となった。先生が末尾に書かれた(以下次号)の四文字が無限の語りかけのように見える。
水上先生の翻訳における「すばらしさ」について言及されることは多いが、このような日常の些事をおろそかにしない一面は、ややもすれば見落とされがちである。わたくしは<OSTECジャーナル>の編集に携わったおかげで、先生のこのような側面からも学ぶことができた。編集者冥利といってよい。

水上達郎という類まれな名技術翻訳家の教えをうけ、その人間的魅力に接しえたことは、わたしの人生における最高の幸福のひとつであった。しかし、いま不条理な力によって、その幸福が突然奪われた。わが人生の最大の痛恨事としかいいようがない。■